この写真の場所がどこだかわかりますか?先般の西日本豪雨災害を思い起こさせる、一面、水に浸かったまち。ここは、今から65年前の愛知県西尾市一色町、当時の幡豆郡一色町です。ときは1953年(昭和28年)9月、愛知県に上陸した台風13号は、海に面した一色町の海岸堤防のべ4.5㎞、その内側を守る中堤防2.7㎞を寸断し、町域の8割を水で覆い尽くしました。
「数十年に一度の大雨」という言葉をよく耳にするようになった昨今。防災月間を前に、実は、この地域にも起こり得る水害について、昭和28年の「13号台風」から考えてみたいと思います。最近発見された、一色町の被災状況を写したオリジナルプリントの一部も紹介します。
決して"対岸の火事"ではない
13号台風で浸水した一色町の様子
今年7月の西日本豪雨以来、連日テレビに映し出された岡山県倉敷市真備町の被災状況を見るにつけ、思い出されたのがこれらの写真でした。写真は現実を突きつけます――決して、よその地域の災害では済まないのだと。
ただ一方で、不思議にも思いました。エリアの27%が浸水した真備町と、80%が浸水した一色町。昭和28年当時の一色町の人口と現在の真備町の人口は、奇しくもどちらも22,000人余り。しかし、50人余りが亡くなった真備町に対し、一色町は16人。どうしてこの差が出たのかと。
被害に遭うのは高齢者が多い
13号台風で決壊した堤防の一部
もちろん、地理的条件、気象条件は違いますし、堤防決壊時刻も真備町は深夜で一色町は日没のころと、大きく異なっています。多くの人が就寝前だったことはかなり大きいでしょう。また、浸水の深さもだいぶ違いました。一色町の浸水は2階に達するほどではありません。
しかし、最大で5メートルほども浸水した真備町ですが、報道によると、亡くなった方の9割が自宅で、しかもその多くが1階で命を落としたというのです。2階などへ垂直避難できない高齢者が被害に遭った可能性が高そうです。
老いも若きも逃げるには
一方、13号台風当日の一色町で中二階に避難していた人からは、屋根裏を蹴破ってさらに上に逃げる準備をしていたという証言を得られました。戦後10年に満たない当時の住宅事情を考えるに、今よりも圧倒的に木造平屋が多いでしょう。
自宅に留まっていては命を落としたかもしれない人も多かったはずで、つまり、一色の人は高齢者もちゃんと逃げたわけです。それは高齢社会が進行した現在に比べると、ずっと若い「高齢者」だったかもしれませんが、「早めの避難」が大きなポイントになっているのは確かではないでしょうか。
過去災害の経験値
台風翌日以降も毎日満潮のたびに浸水した
今回、13号台風を経験した一色町の方々への取材を進めると、ある地区でこんな証言を得ることができました。
「1889年(明治22年)の水害経験者が集落に数人いて、彼らは13号台風で堤防が決壊しそうだと気づいていた。だから、2日前から女性と子どもを避難させ、集落に残った若い男手は彼らの指示に従って動いた」。昭和28年当時の一色町の堤防は、今よりずっと低く、石積みの上に土盛りした造りで、想定より大きな高潮がくれば土盛り部分が簡単に流されてしまうものでした。その『想定以上』を、数日来高くなっていた潮位から60年以上前の水害経験者が感知し、過去の災害を知らない若者たちを助けたというのです。
どのように情報を得たか?
昭和28年は日本でテレビ放送が始まった年で、つまりほとんどの家庭にはありません。それどころか、トランジスタラジオもまだ発売されていないので、停電になればラジオも聞けませんでした。夕方前には送電線が寸断され、電話も使えなくなった一色町。堤防決壊の危機を触れまわったのは、地元の消防団らの肉声です。
また、海の様子が尋常ではないと気づいた人々が、早くも昼過ぎから家族を親戚宅などに避難させていたケースもありました。人々に避難行動を起こさせたのは、信頼できる身近な人からの呼びかけだったのです。
ざっくりとでも、避難行動計画
潮止めのために土嚢を作る住民たち
また、こんな証言も得ることができました。
「明治の水害のときも蔵の中で難を逃れたと、大叔母さんが言っていた。だから13号台風で水が来た時も、家族みんなで蔵に入った」。「水害のときは、(高い所にある)○○さんの家に逃げさせてもらえと、海岸沿いの地域では昔から言われていた」。「明治の水害の経験から、本家が一段高く家を建てていた。だからすぐにそこに家族で逃げた」。家族であらかじめ避難行動を決めていたのですね。
やはり、地域のつながりが重要
丈夫な堤防造りが進む
13号台風以来、連日多くの町民が出て仮潮止めを成し遂げるまでの実に43日間、一色町は毎日満潮のたびに水に浸りました。その後は全国から建設業者がやって来て、家業が成り立たなくなった地元住民を雇用しつつ、一気に堤防建設が進められます。
海岸堤防復興を記念し建てられた石碑の日付はなんと、昭和33年11月1日。国内過去最大の死者・行方不明者をだした、あの伊勢湾台風の前年です。この堤防が完成したおかげで、当時の一色町は伊勢湾台風の際も13号台風ほどの浸水被害をださずに済みました。
伊勢湾台風以来、それほど大きな災害には見舞われていない西尾市一色町。「ここはいい所だ」「ありがたいことだ」と近隣住民同士で笑いあいながら話してくれる人が多く、その姿に13号台風でも声を掛け合った地域の繋がりを感じました。「でも、だからこそ気をつけないとな」。顔を引き締めるみなさんの中には、65年前の教訓が今も生き続けているようです。(取材:羽原幸子)