9月1日は「防災の日」。そして、9月は「防災月間」です。
1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起こったことにちなむ、というのはよく知られていますが、実はほかにも理由があります。
昔から日本では「二百十日」といって、立春から210日目を台風などに警戒する日として暦に載せていました。これが太陽暦でちょうど9月1日頃にあたります。そして何より、「防災の日」が定められた直接のきっかけは、戦後最多の死者・行方不明者を出した台風「伊勢湾台風」でした。
伊勢湾台風の被害
写真:田島彦司さん撮影・ギャラリー彦六提供
1959(昭和34)年9月26日午後9時~10時、のちに「伊勢湾台風」と名づけられる台風15号が、名古屋の西を通過しました。
進路の東側に入った愛知県西三河地域も凄まじい暴風に襲われ、沿岸部の碧南市や高浜市(当時は高浜町)では高潮が堤防を決壊させ、60年近く経つ今でも、この地域で語り種になっています。
さて、ここで問題です。そんな伊勢湾台風の被害を写したこの写真、一体どこだと思いますか?
半世紀以上が経ちました。
こちらが、先ほどの写真の現在地付近です。
手前は、高浜市にある県営赤松住宅。奥に国道419号が走っていて、さらに向こうに衣浦湾、対岸には半田市が見えます。
海は、伊勢湾台風当時よりも遠くなりました。かつて水に浸かり屋根瓦を落とした木造家屋は、今は高層住宅になっています。
碧南市の海水浴場も...
写真:碧南市教育委員会提供
これは、被災翌日の新須磨海水浴場です。
碧南市にはかつて、白い砂浜と美しい松林、そして透明度の高い遠浅の海で知られたリゾート地がありました。
ここはそのひとつですが、多くの人びとを楽しませた海辺の野外ステージも、台風でこの状態に。おびただしい松の木がなぎ倒されました。
台風は海水浴場を飲み込んだ
かつて新須磨海岸だった付近の現在のようすです。
松林に沿って画面中央を走るのが、被災後に築かれた防潮堤。その右手はずっと海でした。新須磨海水浴場は、直接的にはその後の埋め立てで失われますが、観光地の魅力を半減させた最初の一撃は、伊勢湾台風でした。災害は、時にまちのようすや産業形態を激変させます。
脅威!自然の力
写真:樋口眸さん提供
ところ変わって、こちらは現在の西尾市一色町(当時は幡豆郡一色町)の被災後のようす。
渡船場に続く堤防にとめられていた漁船が打ち上げられています。台風襲来時の高波の恐ろしさを彷彿させます。
各地で防潮堤が築かれる
船が押し上げられ、人びとがその被害を覗きこんでいた堤防は、被災翌年から整備されました。
カーブミラーの高さからもお判りのように、現在の防潮堤は気軽に覗きこめるような高さではなくなっています。
建物被害以外に、こんなことも
写真:田島彦司さん撮影・ギャラリー彦六提供
被災後に最も恐れられたもののひとつが、感染症の発生。
写真は現在の高浜市ですが、浸水した地域では、こうして消毒作業が行われました。水が引いたのちにも、さまざまな分野で地元の人びとや関係者が復旧に努めました。
大災害の影響
写真:高浜に届いた避難物資。田島彦司さん撮影・ギャラリー彦六提供
愛知県西三河地域に大きな被害をもたらした伊勢湾台風。
これを機に、あくる昭和35年6月の閣議了解事項として「防災の日」がつくられ、2年後の昭和36年には「災害対策基本法」が制定されました。
実は、昭和30年の『広辞苑』初版には「防災」という言葉はなく、掲載されたのは昭和44年の第2版からのようです。もしかしたら、それも、伊勢湾台風が契機のひとつだったかもしれません。
「防災」という言葉と意識を、広く国民に浸透させた伊勢湾台風。災害は、忘れたころにやって来ます。9月は防災月間。地震だけでなくこの時期要注意の台風にも思いを巡らせ、備えについて考えてみませんか?(取材:羽原幸子/2017年8月取材)